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いぼ

楽問のすすめ

論理学テクストと西洋哲学史Ⅱレポート

昨日論理学のレポートの真理関数の部分を書くつもりであったが、気分が乗らずやめた。運動不足であったから少し軽い運動をしてyoutube で外国人の出てくるTV番組を見てすごしたところ今日は調子がよいから書くつもりである。

 

昨日から「論理哲学論考」を読み始めたが、先に論理学をやっているおかげで、理解が進む。

なぜなら「論考」の内容で大きくしめている部分の一つに命題論理の箇所があり、それは論理学のテクストで学習した真理関数の理論と重なる部分が多いであろうからだ。

 

通信過程の教養科目というのは、何か専門的なことを理解し、考える上で基礎になる。大学の科目内でいえば、教養科目の知識を基準、まずスタート地点として、専門科目の内容を捉えようとすることができる。

だから、教養科目では大学側からすると、学生が科目の内容を理解しているかを問う。レポートで言えば、テクスト内にあったある内容について自分の言葉で説明しなさい、要約しなさい、と言った問い方になる。

専門科目になると、テクスト内のある事柄についてあなたの考えを書きなさい、その際evidence も示しなさい、あなたの学習してきた知識を使って、となる。

 

僕は前の前と前の大学である程度単位(100以上はあると思う)を得ていたから、今の大学で学年の途中から始めることもできたのだけど、最初からやることにした。

そもそも自分は今の大学に入学する前に、大学院に所属しようとしていた。

なぜなら、先に述べた「自分の考え」をそこでは述べることができるからだ。

しかしその時に、自分の考えを述べる際に十分な知識がまだないと思ったし、それまでの大学で学んだ内容は、より社会で快適に生活するための実践的知識に偏向しており、それに不満を感じて以前の大学を退学した訳であるからだ。しかし、アカデミックの分野で活動したいと思っても、そこにはそこのルールがあり、それも知らなかったから、欠けている知識とそこでのルールを補うために最初から始めることにした。

 

それで今に至るが、今回の大学は自分にわりとあっていると思う。自分のペースで自分の関心のあることを選んで学習でき、その活動および成果をここでは肯定されているからストレスを感じない。面倒なのは、科目に応じたレポート用紙の使い方や、履修の登録など事務的な作業である。

 

 

さて、「論考」に話を戻すと、

光文社古典新訳の翻訳版では、翻訳者はこういっている。

岩波だと「論考」の最後に、

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

と命令口調であるが、それはWittgensteinの言葉をdirectに訳したものではなく、

岩波の翻訳者の「論考」に対する理解というヴァイアスがかかっていて、

よりoriginalよりもより強い表現になっているそうだ。

Wittgensteinは言葉に対してとても気にする人であったそうだ。

だから、光文社版の翻訳者は、よりoriginalに近い表現にした。

「語りえぬものについては、沈黙するしかない」

instead of 「しなければならない」

 

また光文社版では、最初に「論考」の内容の簡単な説明がなされている。

僕は本を読むときに、最初に全体を把握する。大まかにどこにどういったことが書かれているか把握しておけば、順に読んでいるとき、「

この話の次はあの話になるから、今のこの話は次のあの話のためにしているのだな。」などと推測することで、現在読んでいる箇所の全体における位置を頭の中に暫定的におさめることができる。

 古文者版の最初の「論考」の説明はその代役にもなってくれている。

 

「論考」の内容のほとんどは論理的考察であるが、最後の章では倫理的考察だそうだ。

とても興味深い。もし先に述べた論理的考察を倫理的問題に当てはめて考察しているなら、それがどのようなものか非常に気になる。

この好奇心によって、論理学についても早く理解したいと思った。

よって大学内に当てはめると、論理学と西洋哲学史Ⅱの科目の学習を進める動機となるだろう。