西洋哲学史2 読了一回目
テクストの研究の手引き二ページ目にニーチェの妹に送った手紙の内容を引用すると、
「もしお前が魂の安息と幸福とを得るために努力しようと思うならば、その時は信仰するがいい。しかしもし真理の使徒であろうと欲するならば探求せよ。」
とある。
そしてテクストでも、僕の解釈で要約すると、
哲学する心構えとして、その動機が精神の安定のためであったり、幸福を得るために、なんかしらの絶対的真理を見出すことを目的とするならば、それは哲学する心構えとしてふさわしくない。なぜなら、自分が絶対だと信じられる真理、原理というものを哲学を通じて見つけてしまったら、それがゴールであるから、言い換えると、哲学をやめるために哲学をしよう、ということになり、それはテクストでいう哲学(真理を求めて探求しつづけること)とは違うから。哲学するとは、それを行うことが可能な限り継続することを前提にはじめられる。
というような感じである。
僕が哲学を大学でやろうと決めたのは、
社会の中に自分が上手く適応できないことから、不満を感じ、社会というもの自体の意味を問い始めたことから始まり、過去に学んだ他の学問分野ではどうしても帰納に支えられた原理原則を基礎におき理論が展開されていくから、そもそもその原理原則はどういうものか、という問いに各分野に所属していたのでは自分の好奇心が満たされないと感じたからということは動機の一つであるかと思う。
周囲の人間の多くが喜びとしていると思われた、他人から尊敬されることや、集団に所属すること、物やある社会内で有効な地位などを保有することに喜びを感じることができなかった。
自分が楽しいと感じることは単に新しいことを知ることだ。
さらに、そうして知ったことの内容を絶対的に信じることができない。
だからそれを疑い、検討する。それも楽しい。
このような僕だから、このテクストに書いてある、「哲学する心構え」とおおむね合致するのではないかと思うが、
だから僕は哲学するのにふさわしい!
なとど安易に決めることはできない。
テクストに書いてあることが絶対的に正しいことだとは思わない。
ただ、テクストに書いてあることは多くの人が信用に値すると思っているであろう内容であろうというふうには認識している。
だから十分に批判の余地はあるであろうけど、書き手もそれを十分に想定して書いてあるであろうから、それを踏まえた上で批判をしていかなければならない。
こぎとえるごすむ、も同様に疑うことはできる。
ただそれらを覆す自論を展開するには、まず今の僕には考える手法が欠如している。
だから、哲学や西洋哲学史のテクストを通じて、過去の哲学者の考えを知り、助けてもらいながら彼らの目指したものに挑戦することができる。
だからテクストをよんでいる。