中野信子さんの動画みる
この人も子供のときに、自分の周囲の環境にどのように適応しようか苦労したようだ。
そういった自分と同じような経験を持つ人が生きていることを知ることは、「自分だけではない」、「自分も生きてよいのだ」という自信につながる場合がある。
この人の場合は、どこかで、この人が苦労しなくとも(他者を通じて自己を承認するためにいつわり、環境にあわそうとすること)自然状態にあるこの人を受け入れてくれる存在を認識していたから、生きてこれたのかもしれない。
しかし、世の中にはそうでない人もいる。
僕も幸運なことにそういう存在がおり、最近さらに別のそのような存在に出会った。
その出会った人の場合は、長い間そういう存在がいなかったようで、今後僕がそれを担っていければ、それは僕にとって幸せなことであると思う。
この動画の中で、この人は「雨が降ってもかさをささない」と言っていた。
僕もささない。雨で濡れるのも風呂に入って濡れるのも単に皮膚が水分を知覚するという意味で同じである。ただ、その水分によって体温が下がり、その状態が続くことで風邪をひく原因となるのなら、その場合は濡れるかどうかが問題というより、体温を下げた状態を維持するかどうかが風邪の直接の原因というわけであるから、この原因から風邪を持ちたくないのなら、濡れる濡れないに関係なく、体温を下げた状態にしてほっておかなければよいだけである。
ちなみに僕がかさをささない理由はもう一つある。片手が傘を持つことによって他のことに使えなくなってしまうことをさけるためである。そのために、僕はポシェットもしている。
動画中の22分あたりで人の脳の実験をしている。
ねたみ感情を持ったときに脳内のある部分が反応するそうだが、
オキシトシンという成分を人が吸引したときにも、同じ部分が反応した結果が出た。
よって、オキシトシンを吸引すると、人はねたみ感情を強くもつ状態になる。
というような結論を導き出そうとしているように見えた。
(TVでだいぶはしょられているし、僕も脳科学というものに詳しくもなければ調べてもいないから彼らが本当は何を見出そうとしているのかはしらない)
しかし、
大前提:人がねたみ感情を持つときに、脳のある部分Aが反応する
小前提:人がオキシトシンを吸引したら、脳のある部分Aが反応する
結論:人がオキシトシンを吸引したら、人がねたみ感情を持つ
とし、
これを論理学の記号に置き換えると、
「人がねたみ感情をもつ」=p
「脳のある部分Aが反応する」=r
「人がオキシトシンを吸引する」=q
大前提:p → r
小前提:q → r
結論:p ⇒ q
となり、結論の文の真理値を真理値分析すると、
(p→r)Λ(q→r)→(p→q)
p q r p→r q→r (p→r)Λ(q→r) p→q (p→r)Λ(q→r)→(p→q)
t t t t t t t t
t t f f f f t t
t f f f t f f t
t f t t t f f t
f t t t t t t t
f f f t t t t t
f t f t f f t t
f f t t t t t t
となり、(p→r)Λ(q→r)→(p→q)という文の真理値はトートロジーであるから、
文A「人がねたみ感情を持つときに脳のある部分Aが反応し、且つ人がオキシトシンを吸引したら脳のある部分Aが反応するとき、人がオキシトシンを吸引したら人がねたみ感情を持つ」という文Aの推論の仕方は正しいと論理学的には言える。
しかし、その文の推論が正しいからと言って、その文の内容が正しいとはいえない。
たとえば上記で使った論理記号p,q,rに、
p = 「ごはんを食べる」
q = 「死んだ人のほねをビンに入れる」
r = 「箸を使う」
という文を代入し、最初の文Aと同じ構造であらわすと、
文B「ごはんを食べるときに箸を使い、且つ死んだ人のほねをビンにいれるとき箸をつかうなら、ごはんをたべるとき死んだ人のほねをビンに入れる」
が出来上がるが、この文Bに対して現実的に考えて納得する人はあまりいないように思う。ごはんを食べたときに死んだ人のほねをビンに入れる事もあるかもしれないが、必ずしもそうではないであろうし、実際にそのようなことが起こる可能性は現代の我々の習慣を考慮して考えると、高いとはいえない。
これは文Aでも同様である。
「人がねたみ感情を持つときに、脳のある部分Aが反応する」という事実が確認でき、
さらに「人がオキシトシンを吸引したら、脳のある部分Aが反応する」という事実も確認できたとき、「人がオキシトシンを吸引したら、人がねたみ感情を持つ」と結論づけることはできるのだろうか。論理学的にこの推論は正しい。
しかし、我々が現実で生活する上では、文Bが論理学的に正しい推論を持っていても、おかしいと思う。
それは、その文の意味に対して、その文の持つ推論の正しさだけでなく、その文の内容も含めて判断しているからである。
だから現実社会で文Aの意味を正当化したいなら、
「人がねたみ感情を持つときに、脳のある部分Aが反応する」
「人がオキシトシンを吸引したら、脳のある部分Aが反応する」
これらがいえたときに、なぜ
「人がオキシトシンを吸引したら、人がねたみ感情を持つ」
といえるのかを説明する必要がある。
人がねたみ感情を持つとき、
脳のある部分Aが反応する
事実が確認されたからと言って、脳のある部分Aが反応することは、
人のねたみ感情を表しているといいきれるのか。
繰り返す実験により、両者には何らかの関係があるという時点までは言い切れるかもしれないが、両者をイコールで結ぶのは乱暴ではないのか。
相関性と因果性は同じではないということがいいたい。
前述したように僕は脳科学の領域に詳しいわけではないからわからないが、
「人がねたみ感情を持つとき、脳のある部分Aが反応する。だから、脳のある部分Aの反応の発生=人がねたみ感情を持ったときである」
と結論づける因果性について、脳科学者たちは何かしらの僕の知らない意見を持っているのだと思う。
論理学を学習したことで、文に対しての見方が増えたから実際に試してみた。