いぼ

楽問のすすめ

ベーシックインカムについて

僕はベーシックインカムについて詳しいわけではないが以下の記事を見て少し考えてみたから書いておく。

 

biz-journal.jp

 

この記事で

 

ベーシックインカムを導入したら人間の労働意欲が減って生産性が下がり、もっと人々が貧しくなる

 

②金を人々に渡すのよりも、物を供給することが重要で、供給するために十分な物を作ることがより重要

 

というようなことを書いてあるように解釈したが、

 

①については、別にそれでよいと思う。

②については、もう既に十分に人々が生活する上で十分な物はある。

 

と思った。

 

①について

人々が労働をなぜしているかというと、生活のためだとすると、生活のためとは何かというと、衣食住の確保がまず挙げられるだろう。

それはベーシックインカム導入によって分配される金でまかなえばいい。

足りない人は不足分を稼げばいい。

「いま人間がやっている労働の多くは機械によって既に代替可能である。しかし、企業の視点からして人間を使うほうが機械より安いのが現状であるから、多くの人間が労働をしている」

という意見をよく聞く。

僕は工場などで単純なライン作業や肉体労働、またホワイトカラーの労働もしたことがあるが、それらの多くは機械で代替可能だと思う。役所の書類の発行なども機械でできる。農業なども機械でできると思う。家畜も工場内で生まれ、加工されスーパーに並んでいる。むしろ機械には人間よりムラが少ないと思うからより生産性があがると思う。

 

だから企業が機械の導入費用が人間を雇うより高くつくというのなら、国が補助してやれば企業は機械を導入し、人間を雇っていたときと同じように、もしくはそれ以上に利益をあげられると思う。そして、企業が機械とそれを管理する少数の人間とで儲けた利益の一部を国が税金として徴収し、それを国民全員に再分配すればいい。

そうすれば多くの国民が労働から解放される。

はっきり計算をしているわけではないが、可能性があると思う。

 

②について

物じたいは存在するが、それが貧困層に行き届いてないだけだと思う。

これもきちんと調べてはないが。(だからそう思っているだけである。)

食料を扱う労働現場で見てきたのは、たくさん食べられるものを企業が利益追求のために、廃棄処分していたことだ。衣料などもそうである。個人が衣類を購入後、それはもう流行じゃないからと捨てる。しかし、それはまだ着る事ができる。着る事はできるのだけど、その社会ではそれを着ると人から尊敬されなかったり、所属集団からのけ者にされたりしてそのコミュニティーで生活しずらくなる。だからそういった側面を考慮すると、そこで暮らす彼らには着れなくなった服ということになるが、衣類をまとう目的を防寒のためなど人以外の自然環境から身を守るためとした場合には、それらの衣類は着ることができる。

 そのような違うコミュニティーではまだ着ることができる衣類や食料がそれらを必要としている人達に供給されていないのが現状であると思う。なぜかというと、そうするためにはそれらの物を運ぶ人間が必要になるが、その運ぶ人達に対して他のことをするよりメリットを供給できていないからだ。BOPビジネスなどはそういった運び手を商売人をターゲットにしたものの一例だ。

 

ローマ時代には市民は奴隷のもとに平等社会を成立させることができた。

現代は、子供が学校で教育され、また既に教育されたそれらの親や教師が社会の担い手として子供の社会化を手助けし、そうして管理社会の基で機械化するよう訓練を積んだ大衆は、労働をせねばならないと思わされ、しない者をは悪いやつだ、と思わされるようになっている。そうして人間の自由を思想としてはじまったはずの資本主義社会は、その中で暮らす多くの人々の自由を労働によって束縛している。フーコーも監獄の機能が監獄の外の社会で機能しているというようなことを『監獄の誕生』で書いてあるが、そうだと僕も思う。

そう考えると、現代では労働によって人間の自由が奪われているなら、労働から人々を解放し、自由にしてやるにはベーシックインカムは有効な手段の一つであると思う。

 

しかし、なぜ可能でもあろうと思われるのに、政府がそれを実行しないかというと、僕が知らないだけで実はまだ合理的にも不可能なのか、合理的には可能であるが、政府がベーシックインカム実施することによる他の側面への影響を考慮して実行に移さないということが考えられる。

後者の場合について考えると、管理社会で教育された人間をある日突然労働から解放し自由にした場合、彼らが何をしてよいかわからなくなって社会混乱が起こる可能性を懸念しているのかもしれない。確かに僕も暇になった一部の人達が現在の法からはみ出た行動を起こす可能性があると思う。また政府も労働から解放された自由な人々を管理していくには新たな管理手法が必要になるだろうから、それがまだできあがってないのかもしれない。監獄に人々をいれておけば、その範囲内では監獄のルールに従って人々を管理することができていたのが、監獄の外にだしてやると監獄のルールは監獄の外では有効ではなくなるから、管理できないということがいいたい。

 

そういった諸問題が解決され、人々に衣食住と安全が安定的に供給されることが可能になれば、ローマ市民が奴隷を使って生活し、創造ある知的活動をしていたときのように、ベーシックインカムによって今後の人は、人間ではなく機械を奴隷とし、ローマ市民のような生活が送れるようになるかもしれない。

 

 

 

 

肉体労働

久しぶりに肉体労働をしているので身体的苦痛を体験している。
労働中はいくらでも汗をかくから毎日3L程度の水分補給が必要となる。
あまりにも過激な肉体労働は学問の妨げになる事がわかった。
帰りの電車やバスの中でテクストを開いてみるが、頭が働かず文章の内容が理解できない。
労働中に重いものを大量に素早く運ぶ動作を長時間行うことで、酸素が不足気味になっている事が労働後にも影響しているのかもしれない。
しかし、自宅で椅子に座っていても肩こりや頭痛はしなくなった。
従って適度な運動量ですむ肉体労働を選択したほうがよさそうである。日本にいると労働の選択肢はたくさんあるから幸いである。

労働現場では外国人をよく見かける。ガーナ、ペルー、いんど、中国、韓国、フィリピン、インドネシアなどの国籍を持つ人々。
話をした人たちは、日本で何年も生活しているから彼らが日本で暮らす上で必要とされる日本語は習得している。
仕事や日常生活に必要な語彙は習得しており、文法に間違いがあっても彼らの周りにいる日本人が彼らの言いたいことを理解できる程度にある。
しかし、彼らの生活圏以外の日本語の語彙も存在している。それらについて彼らは知る機会がない。
僕が、社会現象、と労働現場である外国人と話ししていて発すると、その人は意味がわからなかった。
平均、という単語を知らない人もいた。
喋るのは流暢だが日本語が読めない人もいた。
彼らの多くは日本語を学校に通ったり、本を読んで文法を理解してから学習していくのではなく、日本で暮らす中で日本人や周りの外国人が日本語を話すのを聞いてそれを真似することで覚えている。
英語を母語とする人達もいるから、
英語教師になったらどう?日本では現在商売のために実用的な英語や中国語の習得が大衆の間で流行しているよ。
と伝えてみたが、彼らはそういう仕事が自分の選択肢としてあるという事を知らない。彼らのコミュニティにそういった情報が存在しないからだろう。
一方で僕のパートナーの場合は、日本語を学習する際、まずテクストで文法を学習し、日本での仕事探しの際は、英語教師やホワイトカラーの職種のみが範囲にあり、ブルーカラーの職種は範囲にない。彼女のコミュニティにそういった慣習がないからだろう。
多くの人が成長していく自分の置かれた環境から学習し、社会化していく。
そして彼らが身につけてきた物事を判断する基準は、流動的ではあるのだが一度形成されたものを大きく自らの手で変更していく事は容易ではないように思う。
そのための妨げになる1つの要因は、彼らの使用する言語があげられるかと思う。日本人の多くは日常的に日本語だけを使って生活するから、日本語を通じて学習する事になる。
彼らは日常生活で、人と話し、ニュースや本も読み、情報を得、学習する。これらは日本語を通じて行われる。
海外のメディアや書籍も日本語に訳されたものだけ取得する事ができる。
メディアを介するプロパガンダが有効な理由の1つもここにある。
インターネットで世界の多くの場所に多くの人がアクセスできるようになっても、ここで言っている言葉の壁がある。
この言葉の壁は、単に現在の機会による翻訳で乗り越えられる部分とそうでない部分がある。
乗り越えられない部分は、人によって語に対する解釈の違いがある。この解釈は人が身につけてきた常識に依存する。人の常識はその人の経験に依存する。その人の経験はその人の環境とその人のパーソナリティに依存する。
似たような環境で似たような経験を積んでいけば全く同じではないが似たような常識が人々に出来上がる。
持っている常識が違うと同じ言語を使ってもコミュニケーションがうまくいかない場合が出てくる。
だからある言語を使ってその言語を母語とする人達とコミュニケーションを円滑にとりたければ単に単語を覚えたり、文法を理解するだけでなく、その言語を使用している人達の常識を理解する必要がある。その上でその言語を使っていかないと、日本人の感覚では常識的な事を伝えたつもりでも、それは相手にとって非常識な事として解釈される可能性がある。だから昨今の日本のテレビでは外国人がよく出てくる番組がある。
そういったコンテンツを通して大衆へ異文化を学習させる事で彼らが今後、英語や中国語を使って外国人と共に生活できるように教育しているのが現在。

と思う。


倫理学 ドイツ語Ⅰ 哲学

労働を始めたから学習時間がへった。
通勤の電車の中で少しだけ各テクストを開いた。
電車は人ものが動いたり音をだすから、学習の妨げにはなるのだが、他に選択肢がないからやるしかないと思ってやるとそれなりに集中できる。
限られた時間を意識するのも集中力を上げる方法として有効だ。

倫理学は、一章キリスト教の倫理を読んだ。
旧約では神は人の上にとまる。
偶像崇拝の禁止
神を信じれば神は人に土地と子作りを許す。
新約では三位一体説成立
神は人に内在する。
キリストの教えは、旧約の体を束縛するのに加えて人の精神まで束縛する。
それはとても厳しく人には守る事ができない、だから神を信じなさい。
信じれば報われる。

ドイツ語はまだ動詞の活用を復習している。
Haven,sein と一般的動詞のかつようを覚えた。と思う
単語や文をメモ帳に書いてスキマ時間にこまめに復習する必要を感じる。

哲学は最初の方の推論を少し。
アブダクションは科学の基礎づけに位置する。
哲学関連のテクストを読み始めて思うのは、哲学関連ではない本や日常生活で耳にする文に出くわすと、それの意味するものを考えた後、その信頼性や他の可能性について複数の概念が頭に浮かぶ。
しかし、それらはその場にふさわしくないという事は理解しているつもりだから外にはださない。
哲学書は読むのが楽しい。


倫理学 ドイツ語Ⅰ

7月の試験、間違えてドイツ語Ⅰを申し込んでしまったinstead of 新・ドイツ語Ⅰ

まあドイツ語Ⅰのテクストも持っているし、目次を見たらzu句までとなっているから、

文法の範囲は新しいテクストと大きな差はなさそうである。

 

倫理学は過去問を分類した。

重複した問題がいくつもあった。

テクストの各問いの回答を一つづつ作るよりも、各章の要約ノートを作って各章を全体的に理解していくほうが時間はあまりないが、あとあと役立ちそうだ。

 

労働に時間をとられて試験勉強時間が大幅に減るだろうから、今回は一部の科目に絞ったほうがよいかもしれない。しかし、最低3科目はパスしたいところだ。

僕が「労働」という言葉を使うときに意味づけしている意味と同じ意味づけをハンナ・アレント『人間の条件』も使っているようだ。

自分の生活の中で労働に費やす時間を減らすには、むやみに金を使わないようにする必要がある。

ものは

ジモティー 無料の広告掲示板

このサイトで安価にゆずってもらうことができる。

自分はよく海外にいくから携帯電話もプリペイド式にしている。

日本では珍しがられるが、そうすることで固定費がいらない。

(一ヶ月ぐらいすると受信だけしかできなくなる)

だからかけるときは、ipodtouchを持っているからコンビニなどのfreewi-fiを使えばip電話で話ができる。

スカイプに課金しておけば、海外の携帯電話にもかけることができる。

 

 

 

 

 

 

ニューズレター6月がきた

今日届いた。

 

夜スクーリングは、哲学(専門n)、倫理学(専門)がとる予定。

総合の哲学は分析哲学の手法を使うとあるから、とりたいのだが、

天文学も気になる。

そして、これらをとるとドイツ語は履修できない。

来年中級からできるように調整していくほうがよい。

 

卒業生の卒論のタイトルが紹介されていた。

哲学は古代かか近代のものしかない。

現代だとどの人が面倒をみてくれるのだろう。