哲学テクスト 第二章よむ
第二章推論のついて、まで読んだ。
それで一つ思ったことがある。
社会で生活をしていると、
「世の中は勝つか負けるかだ。」
などという文章を見かけることがある。
これは論理学では正しい推論とはいえないと考えた。
なぜなら、上記文を「世の中は、勝つ場合か負ける場合のどちらかである」と
置き換えてみると、「世の中で、勝ちも負けもしない場合」を無視しているから。
そうするとこれは狭い範囲のトートロジーとはいえない。
「世の中で、勝つ場合か勝たない場合かのどちらかである」という文なら狭い範囲のトートロジーとなる。
では「世の中は、勝つ場合か負ける場合のどちらかである」は、
広い範囲のトートロジーにはなるのだろうか。
そうであるかどうかは、「負ける場合」の定義に依存することになる。
もし「負ける場合」の意味を「勝たない場合」とするなら、
「世の中は、勝つ場合か負ける場合のどちらかである」=
「世の中は、勝つ場合か勝たない場合のどちらかである」
ということになり、
「世の中は、勝つ場合か勝たない場合のどちらかである」
は、狭い範囲のトートロジーであるから、
「世の中は、勝つ場合か負ける場合のどちらかである」は
「負ける場合」を「勝たない場合」と置き換えている分、
狭い範囲のトートロジーとしては認められないが、
広い範囲のトートロジーとしては認められる。
そしてそのような文章を分析的文と呼ぶらしいが、
現実社会の中に飛び込むと、このような文章がたくさんある。
「世の中は、勝つか負けるかだ」という文章も、書き手はおそらく、その文の論理学的推論性を吟味されたいわけではなく、その文の内容の持つ意味を読み手に汲み取ってもらう事を想定して書く場合が大半であろうかと思う。
世界を大胆に二極化する表現で、勝負の世界は厳しいのだ、勝たねば意味がないのだ、などという意味を「世の中は、勝つか負けるかだ」という文章を使う事で、間接的に
表現している場合なども想定される。
また、広告などでは単純明快かつインパクトのある表現が好まれるため、
しばしばこのような表現が使われることがある。
都内など都会にいくと、あたりは広告だらけの現代社会であるから、
そういった情報に受動的であってもある程度目にすることになる。
次に、
テクストに書いてあるのは、
アプリオリな知識というのは、分析的な文の真偽のように経験の介在を必要とせずにその真偽がわかる文の内容を指すそうだが、アプリオリな知識というものが当初頭脳の外、意識の外、つまりそういう知識が世の中にはあるが自分は知らない状態のときにその存在を仮に認めてもよいとしていても、それを自分が知り、理解し、記憶した場合、それは既に私の経験を通して私の意識の中に知識として存在しており、それをなおアプリオリな知識と読んでよいのか、という疑問が浮かんだ。
また、僕が僕の知らないところにあるアプリオリな知識があるなら、それは誰かが知っていると言うことにならないのだろうか。もしなるのなら、誰かが知っていると言うことは、知られるときにその人の経験を通じて知られるわけであるから、それをアプリオリな知識とよんでいいのだろうか。
まだ「アプリオリな知識」の意味をどのようにとらえてよいのかわからない。